ゼロから出発しようとしていたら、私の仕事はほとんど不可能に近かっただろう。
誤謬性とは政治的および道徳的原理が以前の原理に由来するものではありえないことを意味している。
イマヌェル・カントは安らかに眠りたまえ、というわけだ。
幸いなことに、私はゼロ地帯から出発する必要はない。
カントを代表とする啓蒙思想の哲学者たちは普遍的に通用する原理を理性の命ずるところから推論しようとした。
彼らのごく限られた不完全な成功はわれわれの誤謬性説を堅固にするもので、開かれた社会の原理確立の基礎をなすものである。
啓蒙思想はそれまで支配していた道義的・政治的原理から巨大な一歩前進を示すものとなった。
それまでは、道義的・政治的権力は聖職界、俗界といういずれも外部筋に由来していたが、なにが真実でなにが誤りか、なにが正しくてなにが間違いかの決定を理性にゆだねたことは大きな革新といえた。
それは近代化の始まりを画すものだった。
われわれが認めるかどうかは別にして、啓蒙思想はわれわれの政治、経済に関する思想はもとより、われわれの世界全体像の展望にとつての基盤を提供してくれたのである。
啓蒙思想の哲学者たちはもはや読まれることがなく、たしかに読解するのは難しかろうが、それでも彼らの思想はわれわれの思考方式のなかにしっかり組み込まれるようになっている。
理性の支配、科学の絶対優位、人類普遍の兄弟愛などはその主要テーマの一部であった。
啓蒙思想の政治的、社会的、および道義的価値観はアメリカの独立宣言に高らかにうたわれるところとなり、この宣言はいまなお全世界の人民にとつて鼓舞、感動のもとになっている。
啓蒙思想はどこからともなくいきなり飛び出してきたのではない。
その源泉はキリスト教にあり、そのキリスト教はまた旧約聖書の一神教の伝統とギリシャ哲学をもとに築きあげられていたものだ。
見逃すべきでないのは、こうした思想が旧約聖書を除けば、すべて普遍的な文章で表現されていたことだ。
旧約聖書では大量の部族史が一神教とミックスされている。
啓蒙思想は伝統を究極の権力として受け入れるのではなく、そのかわり伝統を批判的考察の対象とした。
その結果は活気あふれるものだった。
人間の知性から創造的なエネルギーがほとばしり出てきた。
この新しい試みが極限まで追求されたのは当然だろう。
フランス革命では、伝統的権力が覆され、理性が究極の裁定者に任命された。
理性はこの任務には耐えきれないことがわかり、一七八九年の情熱は一七九三年の恐怖へと転落していった。
だが、啓蒙思想の基本的な教義が退けられることはなかった。
それどころか、ナポレオンの軍団は近代化の思想をョーロッパ大陸全域にわたって伝播させていった。
近代化のもたらしたものは比較の域を超えている。
科学的手法は目をみはるような発見をつぎつぎと生み出し、科学技術がその発見を生産的用途に振り向けた。
人類は自然を支配するに至った。
経済面では企業がこの機会をうまく利用し、市場が需要と供給との釣り合いをとるのに役立ち、生産も生活水準もそれまでのいかなる時代にも想像できなかった高い水準に上昇した。
こうした印象深い成果を生んだにもかかわらず、理性はとりわけ社会的、政治的分野で、期待されただけのふさわしい効果をあげることができなかった。
意図したことと結果との間のギャップは埋めることができず、実際のところ、意図するところが過激であればあるほど、結果に対する失望感は大きくなった。
私に言わせれば、このことは共産主義にも市場原理主義にもそのままあてはまる。
私は意図せざる結果のひとつの特殊な例をここに紹介したい。
それはいまのわれわれの置かれた状況にぴったりだからである。
啓蒙思想で生まれた元来の政治思想は、それが実施に移されると国民国家を生み出す結果になった。
理性の支配を確立しようとして、人民は支配者に反逆して立ち上がり、その結果彼らが奪いとつた権力は主権者の権力だった。
主権が人民に属する国民国家はこうして誕生した。
その長所がなんであれ、それは国家を超えてすべての人々を救おうと鼓舞した理想からみれば大違いの結果である。
文化面では、伝統的権威の失墜は知的興奮を呼び覚まし、偉大な芸術や文学を生み出しはしたが、長期間の興奮的な実験が終わり、すべての権威が二○世紀後半までに仮面をはがされてしまうと、はじめの興奮はどこへやら、ほとんどが四散してしまったかのようである。
可能性の範囲はあまりにも広くなりすぎたので、芸術的創作に必要とされる規律を提供することができなくなった。
一部の芸術家や文人はなんとかみずからの私的言語を確立しているが、共通の地盤は崩壊してしまったようにみえる。
同様の倦怠感は社会全般にも及んでいるようにみえる。
カントに代表される啓蒙思想家たちは、理性の普遍的な特質をもとに普遍的に通用する道徳基準を確立しようとした。
カントがみずからに課した仕事は、理性が伝統的な外部の権威より道徳基準としてはまさることを示すことだった。
しかし、われわれの近代的な取引社会では、どんな形の道徳でも、それをもつ理由がどこにあるのかと疑問をもたれてしまう。
なんらかの形の道徳的指針がいまでも必要なことには変わりない。
実際、その必要が満たされないままだから、かえっていまの方がこれまでより強く感じられているかもしれない。
だが、そうした指針を提供できる原則や教義は疑いの目でみられている。
ある主張が正しい必要がないとき、その正しさの有効性について気にする必要もなかろう。
人々の尊敬を得るのは正直でも美徳でもなく成功であるとき、なぜ人は正直である必要があろうか。
社会的価値や道徳的規律が疑いをもたれているのに、マネーの価値についてはなんの疑いもない。
それはマネーが本来の価値の役割を不正に使用している状況である。
啓蒙思想はわれわれの世界観にしみ通っているし、その崇高な理想はいまなおわれわれの期待感を形成してはいるが、いま世の中に支配的なムードはある種の幻滅である。
いまこそ啓蒙思想が解明したような理性を、啓蒙思想家が聖職界、俗界を問わず当時の支配的な外部の権威にしたのと同じように、批判的考察の対象とすべきときである。
われわれは過去二百年にもわたって「理性の時代」を生きてきた。
そろそろ理性にも限界があることを悟ってもいい。
代わってわれわれは「誤謬性の時代」にはいる用意ができている。
その結果は前と同じくらい活気あるものかもしれない。
そして過去の経験から学んだところがあるので、新しい時代の夜明けには特徴的な極端な行動を少しは回避できるかもしれない。
われわれは道徳と社会的価値を、両者の相互作用的な性格を受け入れることによって再建することを始めなくてはならない。
そうすることは,望ましい社会組織の形態として開かれた社会の概念を抱くことに直接通ずることになろう。
誤謬性と相互作用性は普遍的な概念であるから、このふたつはこの世界に住むすべての人々にとつて共通の基盤を提供すべきである。
私は普遍的な考えにつきものの落とし穴はいくつか回避できるものと思っている。
もちろん、開かれた社会にも欠点なしとはいえないが、その欠点は提供するものがあまりにも多いというより、むしろあまりにも少ないという点にある。
横浜 審美歯科に対策をしましょう。気軽に横浜 審美歯科が探せます。
アクセスが大変便利な横浜 審美歯科を見に付けてみましょう。横浜 審美歯科に磨きをかけることができます。
横浜 審美歯科です。良い意味で横浜 審美歯科とは別物です。
一生に一度の大切な審美歯科 横浜に対策をしましょう。審美歯科 横浜を応援します。
この審美歯科 横浜は今や欠かせないサービスの1つです。あなたにぴったりの審美歯科 横浜が選べます。
審美歯科 横浜は現代社会で重宝しています。あなたの夢を実現する審美歯科 横浜が満載です。
仲間と一緒に中山 歯科を狙うなら今がチャンスです。便利で楽しい中山 歯科が満載です。
中山 歯科です。中山 歯科の総合検索サイトです。
中山 歯科です。特徴のある中山 歯科です。


